プロフィール

もくじ

「かさなるところ」について

このブログを開いてくださり、ありがとうございます。

「かさなるところ」は、自分らしくシンプルな暮らしを目指す、有江慶彰のブログです。2012年5月5日、こどもの日にオープンしました。

「近ごろ、自分が本当にやりたいことや、自分らしい生き方を探している人が増えた」と、ある出版関係の人に聞きました。たしかに、自分のまわりにも増えた気がしますし、ITツールが急速に発達して、個人で出来ることの選択肢も増えたから、そうなるのは当然かもしれません。

もし、あなたが、「これこそが自分らしいライフスタイルだ」といえるものを既に見つけているならば、この記事に書いてあるようなことは必要ないでしょう。ただ、ちょっとでも「本来の自分らしいライフスタイルが他にあるのでは?」「もっと良い生き方があるのでは?」と、疑問や期待を抱えているのならば、少しは役にたつかもしれません。

このブログのタイトル「かさなるところ」という言葉には、僕が自分の「在り方」として大切にしている3つの価値観を込めました。

・自分と相手の双方の「幸せ」をつくる。
・ライフとワークを「自分軸」に統合する。
・過去と未来がかさなる「今」に力を出し切り人生を楽しむ。

僕が、自分らしいライフスタイルを探す日々の中でみつけた気付き、思考、行動が、本来のあなたらしいライフスタイルの発見に少しでも役立てば、ブログを書く者として、これ以上嬉しいことはありません。

ざっと自己紹介

有江 慶彰

有江 慶彰(ありえ よしあき)
シンプルライフブロガー

面白法人カヤック
鎌倉地域活動カマコン
鎌倉で親子プログラミング講師
双子男児の父
渋谷出身→鎌倉→葉山

父は公務員、母は日本舞踊の師範
男三兄弟の三男

ざっくり略歴

大学を中退して、お笑い芸人になる。
下北沢にアート雑貨カフェを開業、借金だけが残る。
ITベンチャーでSEの仕事に就き、高収入を得て借金を完済。
親会社が倒産してヒドイ目に合う。

会社員SEを15年、収入は増えたが、労働時間も増える。
2010年10月 双子を授かり、暮らし方について考える。

2012年5月 このブログを開始、フリーランスSEに転身、東京から鎌倉に移住。
2014年6月 鎌倉の地域活動カマコンにジョイン、禅ハックの運営・司会を担当。
2015年3月 プログラミング・スタートアップ with キッズの講師をスタート。
2016年4月 面白法人カヤックにジョイン。
2017年7月 夢の一つだった「鎌倉で徒歩出勤」を叶える
2019年 葉山への引っ越しを計画中(今ココ)

ライフストーリーについて

唐突ですが、若い頃のあなたは、どんな感じでした?

少し思い出してみてください。今でも変わらない部分があるかもしれないし、もちろん変化や進化した部分もあるでしょう。

大人になり社会人になった今、もしかしたら、本来の自分を押し殺し、少し無理をしている部分があるかもしれないし、本当の自分はコレじゃないと気付きながらも、日々そのギャップと戦っているかもしれない。

もし、いつもずっと本来の自分のまま、良い気分で過ごせたら、それはもう最高ですよね。難しいかもしれないけれど、なるべくそうでありたいと僕は思います。

前に観たアニメや映画などを、数年経ってからもう一度観た時に、新たな気付きや発見があることってないですか?

それと同じように、たまに自分のライフストーリーを振り返ってみると、いろいろな気付きがあります。多忙な毎日で、なかなかゆっくり振り返る時間がないかもしれないですが、きっと充実した時間になるはずですし、一度しっかり書き出しておくと、何度も振り返ることが出来るのでオススメです。

一つの例として、ここからは僕のライフストーリーを紹介します。僕の大好きな湘南の海の写真を交えつつ。

一色海岸からの夕焼けと富士山

僕のライフストーリー

16才の自分

ところで、TRPGって知ってます?

テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームの略なのですけども、あのドラゴンクエストやファイナルファンタジーの原型にもなっている遊びです。

テーブルトークと言うだけに、コンピューターは使わず、ルールブック、紙とペン、サイコロ、数人の気の合う友達がいればプレイできる会話型のテーブルゲーム。人間の想像力を存分に駆使する最高の遊びなのです。

16才の僕は、そのTRPGってやつにどっぷりハマっておりまして、まあ、地味ぃな、メガネ少年でした。うん、女子にはモテません。

でも、「それぞれ得意なことを持つ仲間が、協力しあって一つの大きな目的を果たす」っていう世界観は、今も変わらず好きです。

雑誌の切れ端

後にお笑いコンビの相方となる、よっちゃんとは、中学校からの同級生で、別々の高校に入った後も時々集まってはTRPGをやった。他にも、BASICというプログラム言語でシュールな自作ゲームをつくったり、くだらない自作マンガや小説なんかも書いたり、J-RAPもよく聴いた。

なんだか気が合うし、メガネ同士だし、20歳になっても相変わらず僕たちは仲が良くて、成人した僕たちは世の中に対して同じような疑問を抱えていた。

電車の中で見る、疲れきったスーツ姿のサラリーマン。当時の僕たちからすると、みんな「死んだ魚の目」をしているように見えてしまって、こんな大人になる人生で良いのだろうか?と。どうせなら明るく楽しい人生にしたいし、僕たちの想像力や、くだらないけど面白いことで、世の中を明るく楽しくすることはできないだろうか?と。

そんな時期に、よっちゃんが持ってきた雑誌の切れ端には「お笑い芸人募集」と書かれていた。

敗北

初舞台は所沢にある小さなホール。

「TRUE TRAP」という風変わりなコンビ名を名乗り、ベタなことはやりたくなくて、特別シュールで斬新なネタを披露して世間をあっと言わせたい、そんなタイプだった。夜な夜な公園に集まり練習を重ね、自信満々でいざ本番に挑む。

結果は、ドンズベリだった。

緊張して相方は大事なセリフが飛ぶし、僕はフォローする余裕もない、そもそも笑いの基礎も出来ていないのに内容がシュールすぎて、とにかく全般的にスベり倒していた。まぁ今でも普通によくスベるんですけども、それとは比べ物にならないくらいものすごーくヒドいスベり方だったのだ。

わざわざ恥をかくために電車で遥々こんな遠くまで来たのかと思うと、気分はもう最悪だった。絵に描いたような安っぽいプロデューサーに「君たち、どっちかメガネを外したほうがいいよ」とか、ありきたりのアドバイスを偉そうに言われたりして、なんだか情けなくなって、正直、もう二度とこんな思いはしたくないと思った。

いつでもユーモアを忘れないことがモットーの僕たちだったけれども、その日の帰りの電車は、めずらしく無言だった。T-BOLANの「離したくはない」のメロディに乗せて「スベりたくはない」を歌えるくらいの余裕が欲しかった。

材木座海岸でSUP

最初の一歩

心の傷も癒えた頃、僕たちは吉本興業や太田プロや浅井企画などの有名な事務所のネタ見せ会場に片っ端から通い、修行を重ねた。次こそ絶対に爆笑をとるぞとリベンジに燃えていたのだ。

しばらくして僕たちは、ネタ見せ会場にたまたま見学に来ていた関西人にスカウトされる。小劇団を立ち上げたばかりということで、

「ちょうど、ビジュアル的にメガネのコンビを探してたんやわぁ」と。

そんなちょうどよいことがあるのかと。とにかく2人ともメガネで良かった。で、僕たちを含めて3組のコンビで、計6人で集団コントを主体とした劇団をやろうという話になり、突然のことで不安もあったけども、他のメンバーの人柄も良さそうだし、僕たちは断る理由もなくその話に直感的に乗っかった。

団長さんは天才的な作家だった。その人がつくる漫才やコントは、僕たちがつくるものとは違って、構成がしっかりしていて、且つ、発想も豊かで面白い。発声の練習方法や笑いの基礎を叩き込まれ、中野や高円寺のホールに毎月200人を集客し、僕たちは初めて「爆笑」というものをステージ上で味わい、それぞれのメンバーにファンもついて、笑い待ち(お客さんの笑い声がおさまるまで静止して待つ)という高度な技まで習得するほどだった。

大変だったけど毎日が充実していた。だから僕はせっかく入ったけど大学を中退することに決めて、お笑いの道に生きることにした。厳格な親父さんに伝える時はこっぴどく怒られるのではないかと正直ビクビクしたけども、「あっそう」と、意外に軽めのリアクションだったので拍子抜けした。何事もやってみなきゃわからない。

僕の人生において、自分を信じ、勇気を持って踏み出した最初の一歩。行動を起こしたその時の僕と、それをすんなり肯定してくれた親父さんに今も感謝している。

貧乏・住所不定

お金も家もなくて、劇団で借りた事務所で少年ジャンプを枕にして雑魚寝の生活。公園の水道水で空腹をしのぐこともあった。収入源は毎月のライブのチケットを朝から晩まで売り続けて稼いだお金だけ。そんなにたくさんは売れないし、事務所の家賃やライブ会場を借りるための費用が必要だからほとんど使えない。これは本当に大変だったけども、月イチのライブの開催と自分が生きるために、やるしかない状況だった。

新宿のアルタ横で、服飾系の専門学生やノリの良さそうな女子高生に声をかけてライブに来てもらうのだけども、尖ったホストに凄まれたり、顔が怖いティッシュ配りのお兄さんに怒鳴られたり、全身白スーツのグラサン&スキンヘッドな人がウロウロしていたり、なかなか危険なエリアで生きた心地はしない。

そんな場所で、お金が無くてどーうしても何か食べたい時なんかは「笑ったらおごってください」と言って、路上で短いネタをやって女子高生にマックの100円バーガーをおごってもらったりしながら、なんとか命をつないだ。まぁ、人としては最低ですね。楽しかったけど。

トレーニング

その劇団では、笑いの基礎である「ベタ」を学ぶために、深夜0時から日が昇るまで吉本ギャグ100連発のビデオを延々と見続ける(半分白目)とか、みんなで深夜の海へ行って真っ暗闇の中、団長にロケット花火を当てられてリアクションを取る(暗くて見えない)とか、ここには書ききれないが、日常的にそういうむちゃくちゃなトレーニングをたくさんやった(やらされた)。

もちろんライブは人気があり、団員は6人から20人くらいにまで増えて、ジャニーズでいうジュニアみたいなチームまで出来て、有名な事務所のお偉い人にも目をつけてもらっていた。ただ、ゲッソリとした青年たちがぞろぞろと賃貸の事務所を出入りするので、あやしい宗教団体と間違えられて通報されることもあった。それもまたトレーニングの一つ。

腰越漁港から見える江ノ島

旅の答え

約1年後、まだまだステージ上で爆笑を浴び続けていたかったけども、日々のストレスからなのか、原因不明の偏頭痛がおさまらず、相方もスランプ状態、お金が無いから栄養も足りず痩せこけて、ほとんど逃亡に近い感じで僕と相方はその劇団を脱退。

そのあとは、ヘロヘロになりながらも、引っ越し、製造工場、警備員などの日雇い肉体労働系アルバイトをしながら、自分たちのオリジナルの劇団を新メンバー6人で立ち上げた。それは鳴かず飛ばずだったけれど、それなりに充実していた。

平行して、2人だけのコンビでも活動を続け、渋谷公園通り劇場で当時130Rさん(板尾さんとホンコンさんのコンビ)が司会をしていた「deBEso」というライブに出させてもらったりして、僕たちは、2人だけで考えたネタで、2人だけのステージで、ようやく「爆笑」をとることが出来た。敗北の初舞台から、3年が経っていた。

笑いを追求する旅が一段落ついたころ、僕たちは一つの答えを見つける。笑いとは、何かを表現することで人の心に影響をおよぼすこと。これってすなわち「アート」だなと。

で、それまでの活動の中で友達になったモノづくりの人たちや、東京ビッグサイトで開催されるデザインフェスタでスカウトしたクリエイターさん達を集め、相方のコネで大きめの借金をして、僕たちは下北沢にクリエイターズショップ&カフェ「ART JAM」をオープンし、店舗オーナーへの転身をとげる。雑誌「散歩の達人」なんかにも紹介されて、また充実した日々が始まった。

最後に残ったもの

お店は、儲からなかった。

でも、充実していた。常連さんは毎日遊びに来てくれて、店内には毎日10〜20人の若手クリエイターが作った作品が入れ替わり展示、販売された。

僕たちは食品衛生責任者の資格を取り、相方は趣味だったコーヒーを、僕は学生時代に厨房のバイト経験があったので、簡単なパスタやトーストなどを提供。夜のメニューは、常連客のバーテンさんに教えてもらったカクテルや、近くの酒屋で仕入れたお酒を出した。

店内の家具は、目黒の中古家具屋さんをまわって安く掻き集めた。椅子とテーブルの種類がバラバラだったけども、落ち着く空間だった。昭和なタンスの引き出しには、初代ファミコン本体と、お客さんも一緒に協力してもらって中古屋でコツコツ買い集めた初代ファミコンカセットがぎっしり詰まっていて、夜な夜なファミコン大会を開催。これは最高でした。

毎日ほんとうに楽しく過ごしていたのだけども、まわりに住んでいる人たちはお金を持っていない美容師、カメラマン、イラストレーターなどの若者が多かったから、僕たちは自分たちが貧乏で苦しんだ経験もあって、炊いたご飯や僕たちのために用意したまかないを若者たちに無料で提供しちゃったりしてたので、まったく儲からず、1年後、泣く泣く店をたたむことに。

最後に、借金だけが残った。

ピンとくる

相方とは、ここでひとまず解散。それぞれの道へと進むことに。

しばらくは無職で、友だちから借りた「花の慶次」を全巻ぶっ通しで読んだり、ダラダラした毎日を過ごしていた。僕の人生で最も虚無感のある27歳。普通の社会人なら働き盛りのはずだけど、当時の僕は花の慶次に出てくる「かぶき者」(戦国時代、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと)になりたいと思っていたからね。この一番ダメな時期に今の妻と出会う。後に結婚してくれることになるとは、本当に感謝しきれません。ありがとう。

で、毎日ゴロゴロ、芸人時代からは10kg以上太っていたし、なんか大事なことを忘れているなぁと思いつつも日々を送っていたのだけども、地味なメガネ少年だった僕としては、この7年間が激動すぎて、しばらく頭の中がぼーっとしてしいた。

ところがある日のこと、シャワーを浴びている時に「あ、借金かえさなきゃ」ってのをふと思い出し、このままでは人生ヤバいと、ようやく我にかえることができた。あの、ピンとくる感覚は何だったのだろう。天才はシャワーを浴びる時にアイデアをひらめくと、何かの本で読んだけど、まぁ、それとこれは関係がないですね。

由比ヶ浜に昇る朝日

人のご縁

ありがたいことに、僕はお店運営のかたわら、兄の会社でプログラマーのアルバイトをさせてもらっていて、引き続きお世話になることも考えた。

だけど、ここで独り立ちしなければ一生ダメ野郎で終わるかもと、直感が働き、それを信じて、思い切ってアルバイトを辞め、当時は新しかったプログラマーの派遣会社にエントリー。なんとか渋谷のシステム開発のお仕事にジョインすることができた。ちなみに僕の小学生のときの夢は「プログラマー」なので、けっこう早い段階で夢を叶えてしまった。まぁその話しはいいか。

その職場で知り合った人のつながりで、今はキンドルがあるけれど、当時はまだガラケー時代で世の中にはそれほど流行っていなかった電子書籍のシステム開発をおこなうITベンチャーな会社に正社員として入社し、上司から「キャラ的に向いてそうだから」という理由で、プログラマーではなくプロジェクトマネージャー(いわゆるPM)を担当。

人生で一番お金を稼いだ時期。そこから数年かけて、お先真っ暗だった大きな借金を、なんとか完済!これは本当に嬉しかったし、なんとかなって本当に良かった良かった。

と、思いきや、その後すぐに親会社が倒産してヒドイ目にあう。2ヶ月分の給料がもらえなくて最悪だったし、子会社メンバーごと独立はしたもののお金がないから、窓のない小さな倉庫をオフィスとして働くことになってしまった。窓がないのはほんとにツライ。10人くらいいた社員は次々と辞めていき、ついに社長と奥様と僕の3人っきりに。僕も断念して退職した。

それでもまた人のつながりで同じ分野の会社を紹介してもらって、なんとか仕事をつないだ。人のご縁はマジ大事だ。これからも人を大事にしなきゃね。

窓に映る僕

36歳。後輩もできたし、それなりに収入をもらい、僕の社会人としての人生は順調にみえた。だけど、結婚して双子を授かり、一家の主という立場から改めて現状の暮らし方について見直してみた時、疑問が浮かんだ。

たしかに無職・住所不定の時期から比べれば、お金も住所もある、妻も子供もいて幸せに違いない。けれども、終電まで残業したり土日休日の出勤もあって、会社から支給された携帯電話はいつでも僕を捕まえることが出来る。家族を養うためにはこれくらい当たり前だと自分に言い聞かせて、疑問を抱えながらも日々を送っていた。

ある日、いつもの居酒屋で同僚と仕事の愚痴で盛り上がった後、帰りの電車の中、ふと窓に映る僕を見ると、僕が20歳の時に見た「死んだ魚の目」をしたスーツ姿のサラリーマンがそこに映っていた。僕は、一番なりたくなかったはずの姿になっていたのだ。

「あれ、どこで間違えた?」と、思わず声に出た。

どうせなら明るく楽しい人生にしたい、と、無邪気に語っていた20歳の僕に、ゴメンと思った。

忙しさにかまけて、自分が好きなことや、やりたいことも忘れてしまって、家にいる時は録りためたバラエティ番組をひたすら見て、笑いの飢えをしのいでいた。働く目的がお金のためだけになっていたかもしれない。気づいたら友達と呼べる人もかなり少なくなっていた。

初夏の由比ヶ浜

えいや

僕は初めて、これまでの自分の人生を真剣にじっくりと振り返った。幼少時代までさかのぼり、好きだったものや大事にしていたこと、自分の価値観や理想のビジョンを言語化したり、マインドマップにしたり、お気に入りのモレスキンノートに自分のことを思いつく限り書き出しまくった。

38歳。双子は2歳。もう身軽ではないし、本音を言えば少し守りを固めていきたいところだった。だけど、何かしないと変わらない。僕は、家族のためだけではなく、自分自身のためにも、もう一度、勇気を持って一歩踏み込んでみようと決意し、こどもの日にこのブログを開設、おもむろに毎日のランニングを開始、フリーランスの道を目指した。

仕事探しは難航、3ヶ月ほど収入無しの状態が続いて、そろそろ生活がヤバい、フリーランスは諦めて正社員で探さなきゃダメかもって時に、気晴らしで髪をカットした帰り道の本屋で「媚びない人生」という書籍と出会う。

その帯に書かれた「従順な羊ではなく、野良猫になれ」というフレーズにしびれ、その本を読み終えた時、僕のメンタルセットが、ようやくカチっとはまった気がする。その4日後、フリーランスとしてエントリーしていた営業代行さん経由で仕事が決まって、道が開けた。不安に耐え、自分と向き合って見つけた自分の軸を信じて、粘り通すことが大事。負けなければ、勝てる。

その勢いに乗って、住む場所は利便性重視で都内からは出たことがなかったけれど、前々から心を惹かれていた鎌倉へ、家族4人えいやで移住。このえいやが本当に良かった。

天命追求型

夢の叶え方には、「目標達成型」と、もう一つ、「天命追求型」がある。

これは「人生に悩んだら「日本史」に聞こう 幸せの種は歴史の中にある」という書籍から学んだことで、しばらくの間、「天命追求型」のやりかたである「自分の目の前にやってきたものを有り難く受け取りベストを尽くす」という姿勢でいようと決めて、鎌倉での新たな日々を過ごした。

鎌倉にえいやと来れたのも、まわりの人の状況や情報によって導かれているのを前々から感じていて、それを少し無理をしてでも受け取りにいったような感覚があったからだ。

この「目の前にやってきたものを有り難く受け取る」という生き方は、僕にとっては良い効果があって、幼稚園のお父さん繋がりで鎌倉の地域活動「カマコン」にジョイン、やりがいある様々なプロジェクトの運営に携わることが出来たり、柄ではないけれど幼稚園の「おやじの会」の会長を1年間務めたり、親子プログラミングの講師をはじめたり、初参加の時から憧れていたカマコンの司会に立つことが出来たり、逗子に住む気の合う仲間が集まる「逗子会」という憩いの会合に呼んでもらえたり、面白法人カヤックにジョイン出来たり、そして夢の一つだった「鎌倉で徒歩出勤」を実現したり。ここ数年は天命追求型の姿勢でいることで、良いことが起こり続けた。

なにより一番嬉しいことは、鎌倉のつながりで、気の合う友達がたくさん出来たことだ。鎌倉・湘南エリアには本当に面白い人がたくさんいて、且つ、距離感がほどよく絶妙、それでいてみんな鎌倉や湘南が大好きという一体感もあり、そのフィルタが効いているからなのか、ここには僕が好き人ばっかりいる。控えめに言っても、僕にとって最高の場所と仲間なのです。

一色海岸と双子

最後に

長文をここまで読んでいただき、ありがとうございます。

2019年の6月に45歳になります。その頃に、僕は念願のマイホームを購入し、鎌倉から葉山へ引っ越す計画を進めています。3年以上前から動いていたので、ようやくといった感じですが、粘った甲斐がありました。この話はまた別の記事で。

せっかく鎌倉で徒歩出社できるのにどうして離れるのか?と聞かれることがあるけれど、鎌倉出勤だからこそ、気軽に葉山に住むことが出来るんじゃん、と、僕は思いました。

特に湘南エリアのビーチの中で、一番好きな一色海岸に徒歩で行けるというのがもう本当に嬉しい。あの穏やかな空気に包まれたビーチで、のんびり飲む缶ビールは格別です。

貧乏・住所不定のダメ芸人だった20歳の時の僕からすると、その時点では想像できなかった素晴らしい現実がココにあります。まだまだこれからも鍛錬を積み重ねていく途中ですが、中間報告として僕がここまでにやって来たことは、

自分自身とじっくり向き合う時間をつくること。

目の前に用意された少しだけハードルの高いところに、自分と向き合うことで見つけた「自分の軸」に沿った直感を信じ、勇気を持って乗っかり行動を起こすこと。

そして今、僕が何よりも大事だと思うことは「気分の良い思考」に集中すること。そうすると、不思議と現実にも良いことが起こり続ける。

もしあなたが、まだ自分のライフストーリーを書き出していなければ、試してみることをオススメします。人生を振り返り、思考をアウトプットすることで、本来のあなたらしいライフスタイルを見つけるための重大なヒントがきっと見つかるはず。僕はそれを応援します。

思考は現実化する。